一般社団法人 乙訓医師会

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乙訓医師会の沿革


 明治21年4月大日本医師会が創立されて、同年12月の会員数2,640名中京都府87名(市内59名、郡部28名)との記載があるが、乙訓郡10ヶ町村より何名参加していたかは定かでない。
 明治33年4月市郡医会の連合により京都府医会が設立され、明治35年6月府令による京都府医師会に変わった時、府下19支会の中に乙訓支会も参加していた模様である。

 明治39年3月に医師会法案が貴衆両院を通過し翌年7月法令による京都府医師会の設立が認可されて、10月13日その発会式が京都市議事堂で行われたが、19支部の中に乙訓支部の名も見えている。その折の支部長は永井繁太郎氏、幹部は六人部是慶氏、宇田弘氏であり、当時の入会者は次の8名である。
 六人部是慶(向日町向日)革島銗太郎(向日町向日)白石堅吉(向日町物集女)永井繁太郎(久世村上久世)二竹文斉(乙訓村井ノ内)那須朝祐(大原野村)宇田弘(新神足村)宇田貞吉(新神足村)。

 明治45年永井支部長逝去のため宇田弘氏が支部長、那須氏が副支部長となり、また大正3年の役員改選では那須氏が支部長、佐多直眞氏(長法寺村)が副支部長となったが、この時から支部長は京都府医師会の議員を兼務したという。

 大正5年天然痘、発疹チフス、ワイル氏病が散発したので同年9月「乙訓隔離病舎に収容の患者はその患者域は家族の希望により、任意の医者を迎えて治療を受ける様郡長に建議した」との記録がある。大正7年にも流行性感冒が猖獗を極めスペイン風邪と呼ばれたが、同年12月乙訓病院の改築落成があり、以後昭和52年に閉鎖されるまで使われていた。

 大正8年9月勅令を以て医師会令が公布されたが、郡市区においても各々医師会を設立せよとの通達に基づき、京都市医師会会則案に準じて郡医師会の会則を作り、大正9年3月15日那須朝祐(大原野村)上野政太郎(久世村)久代義雄(向日町上植野)永井利義(久世村上久世)佐多直眞(長法寺村)の5氏が出席して、乙訓郡医師会の創立総会を開催した。かくして那須氏を創立総代、他を設立委員として、3月30日郡役所を経由して知事に設立認可を申請し、4月15日付きで認可書を交付された。
 爾来19年間那須氏が会長の職にあり、副会長はその間佐多氏より永井氏に代わった。昭和13年那須氏逝去に伴い永井氏が会長に、辻襄一氏(久我村)が副会長に就任した。

 昭和17年2月医師会法を廃して国民医療法案が国会を通過し、同年4月日本医療団令も公布され、同年12月28日には官制の京都府医師会が設立されて、再び乙訓支部に戻った。
 而して終戦後医師会令が改正されて、昭和22年5月9日に至り漸く新生京都府医師会並びに乙訓医師会の誕生を見るに至った。
 以後、平成13年6月1日、京都府の認可を受けて社団法人乙訓医師会設立。平成20年の公益法人制度改革に伴って、平成24年4月1日、一般社団法人に変更、現在に至っている。
会員数247名 A会員123名 B会員104名 C会員21名 令和2年3月31日現在

                                 (乙訓医師会50周年記念誌より)