一般社団法人 乙訓医師会

京都府向日市・長岡京市・大山崎町 地域の皆様の健康をサポートする医療支援をめざします

       
乙訓医師会

乙訓医師会
医師会について
沿革
ご挨拶


  top > 乙訓医師会について

乙訓地域の歴史


概要

 乙訓の地は京都盆地の西南部に位置し、北東は京都市、南は桂川、淀川を隔てて八幡市と相対し、西は天王山から西山丘陵を境に大阪府島本町と接している。気候は表日本型に属し、山城盆地特有の内陸性気候で晴天の日が多く、おおむね温和で暮らしやすい。孟宗竹の発祥の地である乙訓地域の西側には、竹林が見られそれが筍の産地として長い歴史と知名度を有している。京都市南部に隣接する地域には多くの工場や人口の急増に伴う大型の店舗が立地し、また大阪・京都への交通の至便さから、多くの集合住宅がみられ大阪・京都のベッドタウンとなっている。交通至便の地で、東部をJR新幹線、名神高速道路、国道171号が、中央部をJR東海道線(向日町、長岡京、山崎駅)、阪急京都線(東向日、西向日、長岡天神、西山天王山、大山崎駅)がそれぞれ南北に縦貫している。

歴史

 乙訓の名の由来については諸説があり、弟国とも書く。昔葛野郡より分離してできた小国の意から弟国郡と称するようになったといわれる。また、日本書紀の垂仁天皇15年2月の条に、丹波国より5人の女性が後宮に送られたが、5番目の竹野媛は醜女であったため本国に送り返されることになった。媛はこのことを恥じ葛野の地で輿から堕ちて死んだ。それよりこの国を墜国と称し、それが訛って弟国になったともいわれる。継体天皇は518年3月に都を弟国に遷し、526年9月磐余玉穂宮に遷都するまでの8年間、都とした。その場所は旧乙訓寺域が推定されている。

 東大寺の大仏が建立された頃、はなやかな奈良の都は貴族の派閥争いなど、黒い争いが渦を巻いていた。桓武天皇はこのような奈良の都に嫌気がさし、遷都を考え藤原種継にその任を命じた。種継は温和な気候と水陸の交通に恵まれた山背国長岡村に都を移すことを考え、延暦3年(784年)6月から工事を進め、同年末には桓武天皇が平城京から遷都された。ところが、翌延暦4年秋、新都建設の途中に、その最高責任者である種継が大友継人に暗殺された。この事件に連座したとして皇太子早良親王も流罪となり、乙訓寺に幽閉され淡路への途中で非業の死をとげた。これらのことから長岡京は、その造営が完成しないうちに、僅か10年で都は平安京に移されることになった。長岡京は長らく、幻の、呪われた都として不明の存在であったが、昭和30年中山修一氏によって遺跡の発掘が始められ、現在では長岡京の構造や規模がほぼ明らかになった。長岡京は東西4キロ、南北5キロ、その北端に大極殿や朝堂院を含む宮城(長岡宮)は東西1キロ、南北1.6キロであった。

 平安京遷都後は貴族の別荘などが開かれていたが、中世には兵火によって荒廃し、多くは村荘田野と化するように至った。

 明治22年、市制町村制により乙訓郡の46ヶ町村は11ヶ町村となり、明治44年12月における乙訓郡の人口は22,562人、戸数3,759戸でその大部分は農業に従事していた。

 昭和30年代後半から40年代にかけて日本経済の高度成長に伴い、様々な形での住宅開発が進み急激な人口増加をきたした。そして昭和47年10月には向日市、長岡京市が市制を施行し、現在の向日市、長岡京市、乙訓郡大山崎町の二市一町にいたっている。乙訓の人口は令和2年3月現在、向日市57,494人、長岡京市81,050人、大山崎町15,762人であり、面積は37k㎡である。
                                                (乙訓医師会50周年記念誌より)